窯元紹介
「私の小石原焼」について
民芸運動で脚光を浴びた小石原焼
私たち父子が仕事をしているこの小石原(福岡県朝倉郡東峰村)は、周辺の農家が必要とする水がめ、大壺、雲助(注1)、徳利など、日常の台所用品を主につくってきた窯場です。
窯のそもそもの始まりは、いつ頃かはっきりと判明しておりませんが、盛んになったのは江戸時代初期、朝鮮系の技術が導入されてからだといわれております。
当初から実用本位の品々を、蹴りロクロによる手仕事と朝鮮系登り窯によって細々と作り続けてきましたが、昭和6年に民芸運動(注2)の始祖・柳宗悦先生(注3)が小石原から山一つ越えた大分県日田市の小鹿田焼を見出されたことから同時に脚光を浴び、その名が全国に知れ渡るようになりました。
伝統の本質を見据えた、用途に忠実なものづくり
昭和30年代半ば頃からの「民陶ブーム」で窯が増え、作るものも注文に応じて都会向けの多種多様な製品に変わってきました。小石原におけるかつての仕事ぶりは、腰の強い土味を活かした豪快で荒々しい自然なものにありました。しかし、時代の風潮のためか不自然な自由さに目が向けられ、また、それを要求する人も多いこともあって、いつの間にか伝統の健全な面を失ってしまったようです。
哲三は、窯業学校を卒業後、父・熊雄の元で7年間、厳しく陶工としての修業をし、昭和50年、分家を許され現在地にて独立しました。父から教わったのは、職人としての繰り返し、繰り返しの仕事でした。用途に忠実で使い良いものを心掛け、特別な技法や思いつき的な形、偶然な出来上がりを求めるのを避け、あくまでも伝来の熟達した技術を練ること――。今日のような時代にあっても、このことを肝に銘じて取り組んでおります。
圭も窯業学校を卒業し、父・哲三のもとで祖父・熊雄から伝わる仕事のありようを学び、一人前の陶工として認められ、父とともに後継ぎとして製作に励んでおります。
私たちは、かつての生活様式と異なる時代の暮らしの中で、平常無事で誰もが安心して使え、しかも喜んでいただける誠実な仕事を目指します。そして、小石原焼のしっかりした伝統を再び回復して、日常雑器にその「命」を見いだしたいと思うのです。
注1 酒や醤油などを、醸造用の大樽などから小型の容器に移す際に使用する一時貯蔵用の容器
注2 暮らしの中で使われてきた無名の工人がつくる手仕事の日用雑器に美的価値を見出し、活用する日本独自の運動。「民藝」は「民衆的工藝」の略
注3 1889年‐1961年 日本を代表する思想家、美学者、宗教哲学者。1957年、文化功労者に選定